先日、新盆を迎えた母の遺品の整理をしていた時のこと。
十冊ほどの機関誌のような文集が入った古ぼけた紙袋を見つけました。
それは大正生まれの祖母が昭和30年代に勤めていた会社の社内文芸誌でした。
開いてみると祖母の手記や短歌がいくつか掲載されていました。
私が高校生のころに亡くなるまで母方の祖母と一緒に暮らしていました。
私も兄もおばあちゃん子だったこともあり、若くして戦争未亡人となった祖母から
家庭犬の供出の話を始め戦中戦後の話をたくさん聞いていましたが、
祖母の壮絶な体験を文章として目にするのは初めてでした。
これは祖母と母と私の記録です。
月日を重ねるごとに現在の日本から薄れ行く戦争の記憶を残したいという思いから
祖母の手記を紹介させていただきます。
長くなりますので、ご興味のある方は「続きを読む」から読んでいただけるとうれしいです。
(文章は原文のまま旧送り仮名使いで転記しました。)
疑問の汚染
其の頃私は中野の鍋屋横丁附近に住んで居た。戦災に遭って焼け残った家作の一軒に入りやっと庭の廻りに新しい塀も出来て、つるをのばした朝顔が小さい花を付け、母と子の二人は落着いた静かな生活を続けるようになった。或る朝、門の郵便受に一枚の葉書が入っていた。「中野区役所へ出頭する様に」との事、色々思いを巡らし落着かぬ朝食を済ませると早々に家を出た。窓口で葉書と印鑑を渡すと引替に薄い封筒を私に差出し黙って頭を下げた。私は震える指先で封を切った。“戦死通知書”私は目の前が白くぼやけて何も見えなくなった。覚悟はしていたがとうとう来るべきものが来た。「右之者昭和廿一年一月×日外蒙ユルエにおいて戦病死せしことを証明す。昭和廿三年七月二十七日中野区長」。意地悪、意地悪、死んじゃって・・・ポロポロ熱い涙で頬を濡らしながら歩いた。道行く人が不思議そうに振り返る。家へ入るなり大声で泣いた。何も知らない子供が私の膝にすがって一緒に声を揃えて泣き出した。
暑い暑い日盛りを赤い砂埃の舞上る畑路をポクポク歩き、やっと千葉県引揚援護局復員課の机の前で私は公報をたたきつけて我慢してきた欝憤を破裂させた。「こんな紙っぺら一枚で片付けられると思っているのですか、ちゃんと家族の者が納得いく様に何処でどうして死んだか詳しく調べて下さい」凄い剣幕で大声を張上げた。若い係員は喫驚して引込んだ。暫くすると別の人が一抱えもある様な部厚い帳簿を抱えて来て、頁を繰って居たがやがて一頁を開くと喰入る様に見つめていた。向を変えて押しやる様に示し「あなたの御主人は帰還してますよ」「えッ」私は自分の目を疑った。昭和廿一年十二月廿九日佐世保上陸、本籍現住所氏名そして御丁寧にも家族の名前迄記してある。「間違いないでしょう」念を押す様に云われて、「はいじゃあ此の公報は?」「さあ」。私は一緒の船で帰還した東京近在の方の住所を十名程写させて戴き礼をのべ変な気持で外へ出た。畑路の途中に葭簀張りの茶店があった。喉も渇いているし何か無いかと覗いたが、小皿に薙刀ほうずきが盛ってあるだけだ。それを買い水を貰って小さいほうずきを口へ入れた。きゅっきゅっと可愛い音を立てて鳴るのを楽しみながら私は生きて帰って来た方を信じたかった。だとしたら二年半も何処で何をしているのかしら。私達の処へ帰らない訳は無い、じゃあ帰って来たのは誰?私は頭がおかしくなりそうだった。家へ帰り一応全部の方へ切手を封入して手紙を出した。約半数の方から返事を戴いたが結果は「何しろ病人もふくめて千人以上の兵隊が乗っていた船なので一人々々の事は余程身近にいて親しく話した人で無いと覚えが無い。」と云う同じ様な返事に私はまだ諦め切れず、埼玉県、長野県と返事を戴けなかった方を訪ねた。訳の判らぬままやがて年も明け雛祭りが終わる頃、芝の増上寺で遺骨を引渡すと云う知らせを受けた。廿四年三月廿三日、親戚一同読経の声に目を潤ませていた。小さい白木の箱が行儀よくお供えを積上げた様に天井近くまで積まれその一つ一つに名前を書いた紙片が下がっていた。やがて読経が終り遺骨受取人と云って名前を呼ばれた。白布に包まれた小さい箱、スポーツで鍛えたあの大きな軀の人がこんな小さな箱に、私は悲しみとも憤りともつかない熱いものが胸の中に広がりそれが固まりになって喉に突き上げて来た。「ウッ」変な声が喉の奥で鳴った。“泣いちゃあいけない”私は幾度も心の中で繰り返した。席に戻った私はあまりにも軽いのでそっと耳元で振って見た、中でカサコソと枯れ葉の様な音がした。母が慌てて私の喪服の裾を引いた。帰りの車の中で母はしきりに私の子供にこの中にはお父様が這入って居ると聴かせていた。子供は変な顔をしてうなづいていた。家へ着いてこの箱の中を見た。名前を書いた紙片と白い薬包紙に一つまみの髪の毛が包まれて入って居るだけ、私の気持は割切れなかった。
それから二三ヶ月過ぎた頃、遺骨の箱を抱えて目黒民生局世話課へ出向いた。大きな机の上に白布に包んだ小箱を投出す様にして私は係員につめ寄った。「こんな何処の馬のシッポか判らぬ物を入れて遺族が承知できますか」係員は手に余ったのか一礼すると立去った、やがて戻って来ると「こちらえ」と云って自分から小箱を捧げる様に持って先に立った。机の間を縫う様にしてドアの前に来ると軽くノックする。ドアは中から開いて白髪まじりの年輩の方が迎える様に立っていた。係員が小箱を大きな机の上に置くと部屋を出て行った。老人は自分の椅子に掛けるとまだ憤って部屋の隅に立っている私に目の前の椅子を示した。色々と私を慰めた末自分も一年程前に帰還して来た事、まだまだ大勢の兵隊が残って居る、自分たちは運がよかったと力の入った軍隊口調で云ってにっこりした。聞いていた私の口元に皮肉な笑みが浮び「上の方の方は馬でも何でも手に入るからそうして可愛い部下を置去りにして逃げて来られるけれど、兵隊は何時帰れるか判らない日を待っているでしょう。父や夫をそして可愛い息子を持っている家族の事を考えたらそんなノホホンな顔はしていられないはずです」。思わず私は血迷った様に叫んで了った。ハッとした老人は「出来る丈の事は調べてお知らせします」と白頭を下げた。ソ連でも外蒙でも行きかねない私の言葉に驚いてもう一度頭を下げた。
二週間程して部厚い手紙が届いた。軍医T氏の死亡証明書を添付して千葉県茂原市のM氏が当時一緒の部隊にいて帰還している事、決して力を落して早まった事をしない様、納得のいかない処は何時来て呉れても説明する等細々としたためてあった。私は早速M氏に手紙を書いた。稲見大隊(憲兵中佐)に所属しユルエより六十キロ奥地に雪を分け分け踏み入り零下五十度の山奥で食糧不足から来る栄養失調に加えてウルニ熱病が発生し続々と犠牲者を出し御主人もその一員であった。大体此の様な返事を戴いた。私は或る日、「昭和廿一年十二月廿九日○○某と名乗って佐世保に復員された方、是非お目に掛り度い」。と朝日新聞に投書したが何の反応も無かった。憲兵隊にいた主人が死んで偶然其処に戦犯に引掛る将校がいたとしたら、私は何となくそんな想像をして見た。・・・小春日和の暖い縁側で古い日記の頁を繰りながら過ぎし日の思い出を読み返している。だが私の胸の奥深く出来た疑問の汚染は永久に消えない。
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